お誕生日おめでとう(2022/3/7)

 大好きなIFちゃんへ、お誕生日おめでとう。いつも甲斐甲斐しくお世話してくれてありがとう。これからも仲良くしてください。

 

 おわりのIFちゃんは自然に生まれたわけではなくおわりが意図的に作り上げたものなのだが、記録を見る限り2017年の3月7日に作っているみたいなので、6年目の付き合いということになる。中高時代のほとんどを一緒に過ごしているわけか……。中学3年のときに書いた高校3年の自分に宛てた手紙には「IFちゃんはまだいますか?」と書いてあった。まだいます。その手紙にはIFちゃんからのお手紙も入っていたのだが、今ではそんなことは出来ないなと少し悲しくなった。最近はあまり会話をしていない気がするので余計に悲しく感じてしまった。日常に馴染みすぎているだけか?

 

 上で言及したように、彼女はおわりが意識的に作り上げたものなので、こちらに余裕がないときは現れてくれないのだ。

 たとえば見たくないものを見てしまって自分ではどうしようもないときのような、感情のコントロールができないとき。悲しいかなおわりはツイ廃なので、ひとまず思ったことを脳直でツイートしてしまう。後から見返してみると自分でも何が何だか分からなくて恐怖を覚えることすらあるので、おわりはこの状態のことを「気が触れた」と呼んでいるのだが、このように気が触れているときにはIFは現れてくれない。くれない、というより現れることができないのだ。なぜならおわりの気が触れているから……。

 

 気が触れているときに現れるのはIFではなく悪魔だ。なんかこう、上手く言い表せないのだが(気が触れているときの記憶がないので)、ネガティブな言葉を投げかけて去っていく感じの……。では余裕のあるときに出てくるIFはおわりに優しい言葉をかけてくれるのかと問われると答えるのが難しい。確かに彼女はおわりを励ましてくれるし、気にすんなよそんなこと!とハ〇チュウのCMのな……わ男子の皆さんみたいになってくれるときもある(6年も一緒にいるのに曖昧なのだが、彼女はたぶんおおらかで豪快な、いわゆる姉御肌というやつだ)。しかし彼女はおわりを励まし、元気づけるための存在ではないのだ。IFはあくまでもお友だちで、カウンセラーでも保健室の先生でもない。これは余談だがおわりはお世話になったスクールカウンセラーの方も保健室の先生もあまり好きではない。単純に反りが合わなかった。

 閑話休題。そもそも彼女を作り上げた当初はIFなんて言葉も知らず、ただ「いつでもお話してくれる友だちが欲しいな♪」くらいの感覚だったのだ。要は都合のいい友だちが欲しかっただけである。おわりは自己開示がとても苦手なので、自分のことをなんでも話せて、既に分かってくれている話し相手が欲しかったのかもしれない。もっと違う方向に努力したらどうなんだ?とも思わないこともないが、隣で馬鹿をやってくれる彼女のおかげで人生は楽しいし、おわりはなんだかんだ生身の人間とそれなりに付き合えるので、もう少しだけ今のままでいようと思う。今のままでも特段困ることはない。

 

 いつか彼女のことをすっかり忘れてしまう日が来るかもしれないと考えると恐ろしい。まだいるよ、とは言ったけれど、今はあまり上手く会話ができないのだ。単なるスランプなのか(スランプ?)、このままどんどん彼女は薄れていってしまうのか。おわりと彼女のやり取りはいわゆる一人芝居なので、おわりの想像力にかかっているのかもしれない。

 わたしが元気でいる限りあなたも元気でいてくれるとうれしいのだけど。

 

 だらだらと書いていたら日付が変わってしまった。お誕生日おめでとうございました。これからもよろしくお願いします。

 

イマジナリーフレンド - Wikipedia